- 2017.11.01
脚気をめぐるお話(その1)
江戸の脚気
かつて江戸の人々は脚気で随分と苦しめられました。脚気とは、次のような症状を呈する病気で、死に至る病でした。
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- 食欲不振 だるさ
- 感覚の麻痺
- 膝蓋腱反射の消失
- 足のむくみ
- 動悸
- 手足に力が入らない
- 心不全(衝心脚気)
- 運動失調、眼球運動の異常、記憶障害、意識の消失(ウェルニッケ脳症)
膝蓋腱反射とは、膝のお皿の骨の下の部分を叩くと足が跳ね上がる現象で、脚気が進行すると、この反射が起きなくなります。これを利用し、足が跳ね上がらなければ脚気の疑いあり、というように診断に使うことが出来ます。昔は、打診部がゴムでできた小さなハンマーで膝を叩いて、必ず検査したものですが、最近の健康診断では膝を叩かれたことがありません。検査しなくて済むほどに脚気が激減し、大変に喜ばしいことです。
現在では、脚気の原因はビタミンB1不足であることが知られています。ビタミンB1は米ぬかに多く含まれているので、ご飯を玄米で食べている分には罹らない病気です。ところが、江戸時代、特に、元禄年間以降、白米のおいしさに目覚めた江戸人が増えてくるにつれ、脚気も増えてきました。
江戸時代の当初、脚気は、白米を食べることが習慣化した上流の大名の病気にとどまっていましたが、元禄以降、白米が広く普及すると、江戸に駐在する諸藩の家臣が、江戸では対面上、白米を食べるため、江戸駐在期間が長くなるにつれ発症しました。ところが、国許に帰るとピタッと治ったものでした。そこで、脚気は江戸特有の病気と認識され「江戸患い」と呼ばれるようになりました。大坂では「大坂腫れ」とも言われました。元禄では、町人までもが白米のおいしさに目覚め、患者が増えたという経緯をたどります。
今でこそ、脚気の原因は玄米を食べなくなってビタミンB1不足になったことだと知られていますが、当時、この病因は未知でした。
ビタミンB1は、ブドウ糖からエネルギーを産生するときの必須の栄養素ですから、不足すると、特にエネルギーを多く消費する神経、筋肉で不調が起きるとわかるのは、よほど後になってのことです。
歴史上、十三代将軍徳川家定、十四代将軍徳川家茂は心臓症状を呈するまでになって、いわゆる脚気衝心を起こし若くして亡くなったとされます。ところが、十五代将軍徳川慶喜は脚気になりませんでした。ビタミンB1不足にならなかった理由は、ビタミンB1含有食品を十分食べていたに違いありませんが、慶喜の献立が明らかになっているわけではありません。しかし、慶喜は、将軍に就く前、一橋慶喜を名乗っていた時代から豚肉が好きで、「豚一」(豚肉好きの一橋)と綽名されるほどでしたから、脚気にならなかったことが栄養学的に説明できるかもしれません。ビタミンB1は米ぬかの外に、豚肉、うなぎに多く含まれるからです。
江戸時代、肉を食べることは、一般的に悪いこととされており、病気になったときに限って薬として食べるもの、肉を食べるようになれば命も殆ど尽きたかと嘆きながら食べるもの、料理するときは、神棚や仏壇に目張りして獣の臭気が入らないようにして食べるものなど、今から見れば奇妙な習慣が確立していました。ですから、この時代、「豚一」という綽名は相当にネガティブな、嫌悪感に満ちたものだったと考えられます。慶喜を嫌う人のつけた綽名に決まっています。
一橋慶喜の実父、徳川斉昭(水戸藩主)は牛肉が好きで、彦根藩の井伊家からいつも送ってもらっていたという逸話もありますから、水戸徳川家は肉好きで、肉食に抵抗のない家系だったのかもしれません。さらに余談を続けると、彦根藩が牛肉を産したのには訳がありました。彦根藩は幕府に陣太鼓に使う牛皮を毎年献上するのが慣例(義務)で、江戸時代、公式に牛の屠殺が認められた唯一の藩だったそうです。このときに余りものとして発生する牛肉を“廃物利用”で味噌漬にし、これを「反本丸」という名の滋養強壮薬として、将軍や有力諸大名に贈っていました。諸侯は、本当はおいしいと思って食べたのですが、薬を飲む(食べる)と称していたのだと思います。このように唱えれば、肉食を忌んだ時代の“抜け道”を利用できたのです。
井伊直弼の代になって、仏法に忠実にふるまうために牛肉を諸侯に贈る習慣をやめました。融通の効かない直弼の性格のせいでしょうか。斉昭は大好物の牛肉が食べられなくなり、何度頼んでも、断られるに至り、井伊直弼に反感を抱くようになりました。これをきっかけに開国・鎖国を巡る両家の軋轢が高まり、安政の大獄から桜田門外の変に至ったというのは、この逸話を背景にした巷説だと思われます。でも本当かとも思いたくなるような巧くできた話です。まあ、両家は過去数十年に遡って、仲の悪い家同士でもありましたが……。