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よもやま話

Short Story

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よもやま話

  •  2018.10.15

世に飛び交う気になる言葉-日本人は減ったことがある-

 日本の出生数が減り続けるのはなぜなのか、どうすれば人口減少を抑え社会を安定させられるのか、人口減少の結果、社会はどのようなことになるのか、などたくさんの疑問が湧きます。とても難しい問題ですが、それを見通すには、社会を文明論的に視る目が必要なのだと思います。

 人口減少という国の危機は、かつて私たちの先祖が乗り越えてきた歴史でもあります。歴史人口学の鬼頭先生の著作[1][2][3]を基に、日本がこれまで三度経験した人口減少の歴史を振りかえり、かつて、なぜ人口減少が起きたか、それによって社会はどのように変質したか、人口減少が増加に転じたのはなぜか、を考える縁にしたいと思います。

 

最初の人口減少

 縄文時代、紀元前2300年(4300年前)のころをピークとして、日本には26万人の縄文人が住み、高度な狩猟採集社会を営んでいました。このスタイルの社会としては世界一、人口密度の高い生活圏が形成され、当時としては、よほど豊かな生活を送ることができたようです。

 最終氷期の最寒冷期後、約19,000年前から始まった海面上昇は、完新世(およそ7,000年前から5,000年前)の最も温暖であった時期にかぶさるように、紀元前4,500年から紀元前4,000年にピークを迎え、ピーク時の海面は現在より約5m高くなりました。現在の日本では、貝塚がずいぶんと海から遠く離れたところから出土するのですが、当時はそこが、海に面した陸地の一帯だったと考えられています。東京湾は深く埼玉県まで入りこみ、現在の大宮市は内海に突き出た半島だったといわれます。この海面上昇は「縄文海進」の名で知られます。

 この時期、海岸に行けば女子供でも容易に貝が拾え、深く湾入した静かな内海で男たちが魚を捕り、森には木の実(トチ、クリ、ナラ、クルミなどの堅果、ドングリの類)が豊富で、温暖な気候のもとに獲物(イノシシ、シカ、カモシカ、鳥など)も多かったのでしょう。紀元前4000年頃の縄文前期、地球の温度は現在より平均で約5℃高かったという説[4]もあるようです。

 温暖、あるいは暑いくらいの気候のもとに縄文時代が穏やかに豊かに過ぎていったとき、次第に気候変動によって気温が下がり始めました。クルミ、ナラ、トチの実などの食料が減少したことが原因になったのかもしれません、紀元前1000年の頃には8万人まで人口が減ったというのです。

 このような昔のことですからはっきりしませんが、食料の減少が一つの原因となって人口減少を惹き起こしたようなのです。人口の極大から極小まで1,300年の時が推移していますから、現在の日本の人口減少と比較すると、とてもゆっくりした変化だったといってよいでしょう。

 

日本人口の趨勢:縄文早期~2100年

紀元前6150年~1846年の人口は鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫・2000)、1872年は旧内閣統計局推計、1900年~2010年は総務省統計局『国勢調査報告』、2011年~2100年は国立社会保障・人口問題研究所『全国将来推計人口』に依拠/鬼頭宏:世界人口から考える日本の未来/日本が乗り越えてきた4つの人口の波 National Geographicより[1]

 

二回目の人口減少

 人口の極小を迎えた縄文時代晩期に、日本に稲作文化が入ってきて、食料事情がよくなり始めました。食料が足りるようになれば子供も育ちます。出生数が増え始めたのです。狩猟採集生活という暮らし方(文化)は次第に稲作農耕文化にとって代わられ、人口は順調に増加しました。国造りが始まり、開墾が盛んになり、農地の国家管理(公地公民、班田収受)のもとに稲作が盛んになって奈良時代には500万人となりました。その勢いで平安時代は700万人まで増えました。およそ2,000年間で8万人から90倍も増えたといえそうです。稲作の恩恵を享受する国になったのでした。

 平安時代中期から私的な土地所有として荘園がどんどん増加し、国を挙げて農地を広げる努力が低調になり、国と民から意欲が失われ始めました。そこに気温上昇が起こり、特に西日本では旱魃が頻繁に起こり、水田の水の確保が十分でなくなってしまいました。

 灌漑施設などの大規模土木工事は、人手だけでなく、民の気力と国の実行意志が必要なのですが、この時代、低調になっていたらしいのです。世は末法思想が広まり、現世を逃れて極楽に往生したいというはかない望みにすがる気風が広まれば、民の活力と国の勢いは低下し、直接的には食料不足となって人口は増えなくなりました。こうした人口停滞期は鎌倉時代の終わりまで続いたそうです。

 

三回目の人口減少

 室町時代になると、貴族の荘園管理を任されていた武士階級が台頭してきます。在地領主となって力をつけ、自らの手で農作物の増産を心がけるようになりました。そこから大名が生まれ、経済力をつけ領土を拡大しようと懸命に努力しました。武士という新たな土地所有者が確立し、土地経営に活力が戻って来ました。貨幣が、商業が、流通が発展し社会は活気にあふれてきました。この時期、人口が増加に転じます。

 戦国時代の頃でも、戦のために人口が減ったということはありませんでした。戦で死ぬ以上に子を産んだのでしょう。西暦1600年ころ、徳川幕府の開かれた頃ですが、人口は1500万から1600万人に達したそうです。

 江戸時代では、世の中が平和になり新田開発が盛んになって、日本人は懸命に働くようになりました。労働集約的な農業技術が発達し、単位面積あたりの取れ高が増加してきます。人手をかける農業ですから、家族の数が多いほうが有利であり、食料事情が許せば子を多く持ちたいという元気にあふれていました。江戸時代も後半になるまで人口は増え続け、3200万人となります。
そして、18世紀後半に人口増加は止まってしまいます。天明の飢饉や浅間山噴火が起き、気温が下がりました。短期間ですが18世紀の寒冷化は世界的なもので、テームズ川や隅田川が冬に結氷したのがこの頃でしたが、日本の人口停滞の主たる原因ではありません。主たる原因はこの社会体制で、この国土で、この生産構造で、この農業技術で人口の飽和状態に至ったということのようです。新田開発できそうな未利用地はほとんど開発してしまったということでしょう。

 


[1] 鬼頭宏:世界人口から考える日本の未来/日本が乗り越えてきた4つの人口の波 National Geographic
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20110907/283250/ 

[2] 鬼頭宏:人口安定へ「国の形」転換を 日本記者クラブ研究会「人口減少問題」https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/27404/report/
[3] 鬼頭宏:人口から読む日本の歴史 講談社学術文庫 2000年
[4] 竹村 公太郎:「宿命の治水」は江戸時代から始まった http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53619

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