業界よもやま話

Short story

  • 2017年12月1日

脚気をめぐるお話(その3)

 その後、脚気の研究が進み、鈴木梅太郎博士のオリザニン(ビタミンB1)の発見に至りました。三共はこれを販売した会社で、現在の第一三共の前身です。それでは結核と並んで二大国民病と言われた脚気は現代ではどうなっているのでしょうか?

 

 現代の脚気と若手Aさんの体験

日本で、脚気による死亡者が千人を割るのは、驚くなかれ、なんと昭和30年以降なのだそうです。Wikipedia「脚気」によると、脚気死亡者は、昭和25年(1950年)3,968人、昭和30年(1955年)1,126人、昭和35年(1960年)350人、昭和40年(1965年)92人と推移しました。これは、アリナミンが行き渡ったためとされ、武田薬品は脚気治療に大きく貢献しました。しかし、国民の栄養状態の問題が解決された昭和50年(1975年)ごろから、今度は栄養成分の偏ったジャンクフードが普及しはじめ、脚気が増加傾向に転じました。また最近では、高齢者を中心に、買い物に不自由をきたして副食物の乏しい米食中心の食事を摂る方々に脚気が見られるとの報告があります[2] [3]

 上記の1996年の論文で報告された58歳の女性患者さんについて少しお話ししておきます。この方は労作時呼吸困難と下腿浮腫を主訴に入院され、心電図異常を認めました。つまり息が切れ、足がむくむ心不全症状といえます。さらに、心エコーで全周性に中等度の心膜液貯留を、胸部CTで心膜液貯留と両側胸水貯留を認めました。心膜穿刺・胸膜穿刺を施行した結果、心膜液は浸出性、胸水は漏出性と判定され、心膜炎(病因不明)による心膜液貯留と判断されました。

 心臓は、心膜に包まれて胸郭の中に納まっています。心臓は心膜の中で滑りよく円滑に拍動を打っています。脚気になると、心膜内に多く水がたまり、その抵抗で次第に心臓は動きにくくなっていき、心不全に至ることがあります。

 たとえば、心膜内に血液がたまると心タンポナーデと言って、ジャブジャブの液体抵抗のなかで心臓が動きにくくなり死亡します。「心臓を一突き」という設定の推理小説などで、この死因がよくでてくるのでご存知の方もいらっしゃることでしょう。脚気では、血液ではありませんが、心膜内に液がたまって心臓の拍動に抵抗がかかる症状を呈することがあるということです。

 この論文では、いろいろの観点から心膜液貯留の原因を考察し原因不明としてありますが、脚気による可能性を否定していません。

 

 こうした背景をご紹介したうえで、製薬企業に入社して数年目の若いAさんの個人的な経験をお話したいと思います。若手Aさんは開発本部に所属し研究所から上がってくる多くの前臨床試験の報告書を目にすることができました。ある化合物の毒性試験報告書を見たときのことです。イヌを対象にした抗癌剤の毒性試験で、剖検の結果、心膜液貯留という毒性所見が書かれてあったのです。

 これは、当時、毒性試験の所見としてはやや珍しいもので研究所の人たちは首をひねっていました。なぜこのような所見が発現されるのか、多くの人が疑問を覚えました。そして、このような所見を発現する作用機序はわからないながら、この化合物は薬にならないと思う人がほとんどでした。抗癌剤だからある程度の副作用は許容されるにしても、心膜液貯留から、ひいては心不全を起こすような薬を開発することはできないと思っても当然です。

 当時、若手のAさんは歴史小説が好きで、つい先日も、十四代将軍、徳川家茂が大坂城において脚気衝心で若くして亡くなる場面を読んだばかりだったのです。毒性試験報告書を読んだとき、心臓に水が溜まった家茂の症状とイヌ毒性所見はそっくりだと思いました。要するに、この化合物はビタミンB1の合成阻害か、作用阻害を持っているため、毒性試験でイヌは脚気様心所見を呈したのではないかと思ったのでした。

 研究所でもこの毒性所見が話題になっていた頃でしたから、Aさんはいろいろ調べ、ビタミンB1欠乏によって心膜液貯留は起こりうる、それを証明するためには、この化合物と同時にビタミンB1を投与して心膜液貯留が起こるか否かをみる、あるいはこの化合物だけを投与して心膜液貯留をきたしたイヌに化合物の投与をやめ、ビタミンB1だけを投与して心膜液貯留が改善するか否かを見るという実験を行えば、この化合物の心毒性の機序とビタミンB1の関与がはっきりすると提案しました。Aさんは若く、活力に溢れていたのです。

 

 それで、どうなったか、ですって。結局、研究所はなぜ心膜液貯留が起こったのか、作用機序を確かめる実験をすることはありませんでした。研究所は、心膜液貯留が起こったという事実だけで十分だったのです。本化合物の開発をドロップさせ、あとは何事もなかったかのように、別のプロジェクトにとりかかったのでした。若いAさんの少しがっかりした思いを残して……。

 


[2] 荒木、斉藤、中島ほか:高拍出状態が心膜液貯留により隠蔽されたと考えられる脚気心の1例.心臓28: 935-941, 1996
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shinzo1969/32/4/32_313/_pdf
[3] 桑原、近藤、濱田ほか:ショック,意識障害をきたした高齢者のビタミンB1欠乏症(脚気)の1症例.心臓 46 893-899, 2014
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shinzo/46/7/46_893/_pdf