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Short story

  • 2017年11月15日

脚気をめぐるお話(その2)

 江戸時代になって、白米のおいしさに目覚めた江戸人の間に脚気が流行しましたが、それは、当時の人が豚肉を食べず、栄養学的に偏った食事をしていたことが原因でした。しかし、それよりももっと重要な原因は、玄米を食べれば脚気に罹らないということを明治の後期になるまで知らずにいたことでした。

 肉を含まない食事は欧米では考えにくく、脚気は貧困な地域や肉を十分に食べない日本にしか見られない病気で、欧米では珍しい病気でした。今回は明治になって、日本で脚気がどうなったか、というお話です。

 

 明治の脚気

 ブドウ糖を分解してエネルギーを得る代謝の過程にビタミンB1が必要だということは、炭水化物を多く摂るとビタミンB1が多く必要になるということです。玄米を白米にして食べる、炭水化物を多く食べる、しかもお肉などの摂取が少ないという食生活を続ければ、今でも脚気になります。白米と野菜だけの食事ではダメなのです。

 日本では、明治になって脚気患者がどんどん増えました。これは、国民皆兵の制度がしかれ、兵隊には一日六合の白米を食べさせて喜ばせ、徴兵の忌避につながらないよう士気を高める政策を採ったことも一因かもしれません。兵隊になれば白米を毎日、腹いっぱい食べられるというのが、当時の軍隊の大きな魅力でした。あるいは、戦死するかもしれない任務に兵士を出すとき、白米を腹いっぱい食べさせてから送り出したいという上官の気持ちもあったかもしれません。光輝く白米とは、それほどのものだったと知ることは、明治の人情を知る歴史感覚でもあります。

 当時、脚気の原因を巡り、「白米食原因説」、「伝染病説」、「中毒説」などの諸説がありました。海軍軍医高木兼寛は、脚気の原因はたんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱく質を多く摂れば脚気を予防できると仮説を立て、これを検証するため、明治17年、練習艦「筑波」の遠洋航海で洋食を採用したところ、287日の航海を終えて帰港した乗組員333名のうち16名が脚気で、脚気死亡者なしという好成績を収めたそうです。今なら、洋食群と従来食(白米)群の二群に分けて、二重盲検ではなくとも(二重盲検が無理な理由はおわかりですよね)、比較試験をしたくなる場面です。

 

 陸軍では、森林太郎(鴎外)の伝染病説をとって白米食を続けたため、脚気を減らすことに苦労しました。たとえば、日清戦争(明治27~28年)では4万人を超える兵士が脚気に罹り脚気による病死者が4千人以上(死亡率10%)に昇るほどの蔓延でした。

 陸軍省医務局の公式記録では、「我軍ノ脚気患数ハ総計4万1431名……全入院患者ノ約四分ノ一」を占め、「銃砲創(戦傷者)1ニ付キ(脚気罹患者は)実ニ11.23」、戦死者977人に対して脚気による死亡者は4,064人であり、「古今東西ノ戦役記録中殆ト其ノ類例ヲ見サル」と書かざるを得ない惨状でした。戦死者の4倍もの兵士が、玄米を食べさえすれば助かる死を遂げたのでした。動員総数約20万の日清戦争において、(公式に認定された者だけで)兵員の約2割が脚気患者だったというから驚きです。 

 日露戦争(明治37~38年)では全傷病者35万2700余人中、脚気患者は内輪にみて21万1600余人、他病に算入されているとみられるものを含めれば、少なくとも25万人に達したとする推定があるそうです。戦病死者3万7200余人中、脚気による死亡者2万7800余人(約75%)でした。死亡者が2万7800人ということは、通常の致死率から逆算すれば脚気患者数は30万人を超えたとみてもよいでしょう。日露戦争の参戦総兵員約108万8000人において、脚気の犠牲がいかに大きなものであったかがわかります。

 

 明治には、日本全国の非軍人の脚気死者数は年間1万人前後だったそうで、動員100万の陸軍、1年間余の戦争で、その3倍の死者を出したということになります[1]。戦場の過酷さと言うことも、ビタミン不足の恐ろしさと言うこともできます。
 海軍で脚気を殆ど出さないように措置した高木兼寛は慈恵医大の創立者ですから、大学ホームページに脚気予防に取り組んだ歴史的な詳しい説明が載っています。

 


[1] 内田.研究プロジェクト:近代日本の戦争と軍隊-日清・日露戦争と脚気
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images/_tz0716.b5706d4ad276df8bb8ffc5ce8c311f69.pdf#search=%27%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89+%E8%84%9A%E6%B0%97%27