業界よもやま話

Short story

  • 2017年5月15日

懐かしいロングセラーなお薬たち

1. はじめに

    家庭薬の中には、国民誰もが知っている有名なお薬がたくさんあります。テレビのコマーシャルで使われる音楽を聴くと、そのオリジナル曲や作曲家ではなく、そのお薬が先に思い浮かぶほど広く知られたロングセラー薬もあります。また独特の匂いをかぐだけで、誰もが言い当てることができるほどのお薬もあります。

 日本家庭薬協会のホームページを覗いてみたら、たくさんの有名なロングセラーが並んでいるので嬉しくなりました。百年以上のロングセラーともなると、祖父母、曾祖父母の代から日本人が使い続けた家庭薬で、国民の歴史と文化と言ってよいでしょう。

 一般薬、家庭薬が効き目と商品名とで長いこと親しまれたように、二百年間も使われている処方薬もあります。今回は、今なお、現役で使われているロングセラーのお薬のお話をいたします。

 

2. モルヒネ

 十八世紀後半、大英帝国は清からお茶を輸入しすぎて貿易赤字になって困っていました。英国が清に輸出するものは贅沢品が多く、売上ではたいしたことのない状況だったのです。

 この当時、お茶はすっかり英国社会に定着し、なしでは済まされない商品になっていました。かと言って、この時代はまだ、インドのアッサム地方やセイロンでお茶が栽培されるまでには至っていません。英国にとって、お茶は清が頼りでした。

 貿易赤字に苦しむ大英帝国の打った起死回生の秘策が、インドで生産した阿片(モルヒネ)を清に輸出することでした。十九世紀に入ると、阿片消費量がぐんぐんと増加し(背後には依存患者の急増があるわけですが)、清の側が赤字を出し始めるようになりました。

 当時、清の銀本位制の許では、貨幣ではなく銀の重量で商売が成立し、たとえば、メキシコ銀貨は清において、重量と純度が一定の銀の固まりとみなされ、便利に広く使われていました。鷹の意匠のために「鷹洋メンヤン」と呼ばれ、メキシコ政府と関わりなく親しまれていました。

 阿片が清の社会に広まるのと裏腹に銀が止めどなく大英帝国に流れていきました。あれよ、あれよという間に、お茶の輸入額を超えて阿片の輸出額が大きくなって大英帝国は大いに喜び、逆に清は深刻な状況に置かれました。

 こうした背景があって、清が阿片の密貿易を取り締まる過程のいざこざでアヘン戦争が起きました。英議会では、野党からは大義のない出兵であると相当に批判もありましたが、軍隊を清に派遣することを承認しました。日本では、天保十一年(1840)、十一代将軍家斉の最晩年の頃です。

 開戦後二年にして、清は英国に屈服し近代史の大事件となりました。これを聞いた日本の先覚者の間に危機感が高まり、次第に、幕末の沸騰した時代が準備されていくことになります。それはさておき、モルヒネのお薬としての歴史は、文化元年(1804)に阿片末からモルヒネが初めて分離されるところから始まります。欧州ではナポレオン戦争が盛んな頃です。日本では長崎に露西亜ロシア使節のレザノフが長崎に来航しました。

 この物質が「夢のように痛みを取り除いてくれる」ということから、ギリシア神話にちなんでモルフィウムと名づけられ、鎮痛作用が喧伝されました。翌年には、鎮静睡眠剤として精神科にも使われるようになります。

 モルヒネが嗜好ではなく、医学の場で広く使われるようになったのは、嘉永六年(1853)、皮下投与で用いられるようになってからです。この年、六月(陽暦7月)、ペリー艦隊が浦賀沖に現れ、ついで、観音崎―富津間の江戸湾最狭部(およそ10km)の幕府防衛ラインをやすやすと超えて江戸内湾に入りこみました。

 幕府は相模さがみ(神奈川)側と上総かずさ(千葉)側の両岸に台場を設け大砲を備えていたのですが、強薬を装填しても5km以上の射程距離を出せない大砲だったために、両岸から悔しがって日本人が見守る中、ペリーの艦船は目の前を通過し防衛ラインを突破してしまいました。幕末動乱のきっかけになったペリー来航は、明治維新の15年前のことです。

 その後、亜米利加アメリカでは、文久元年(1861)に勃発した南北戦争において、モルヒネが負傷した兵士の鎮痛剤に広く使われました。北軍の猛将ウィリアム・シャーマン将軍が元治元年四月(1864年5月)にアトランタ作戦を開始し、八月(9月)には中心部の要衝アトランタを陥落させました。「風とともに去りぬ Gone with the wind」の名画をご覧になった方なら、アトランタが灰燼に帰し、鉄道操車場一面に南軍の負傷兵が横たわる中、南軍側の医師が必死に治療を続けるシーンを思い出してください。

 ここで、古きよき時代の南部文化を身につけた一人の医師が南部訛りでこうつぶやくのです。

「モルヒネがもっとあればなぁ……」

 あまりに負傷兵が多く、手持ちのモルヒネを使い切ってしまった医師の嘆きなのです。この後、亜米利加アメリカでは、大量のモルヒネ依存患者が発生し社会的に大問題となりました。

 アトランタ陥落の頃、元治元年六月五日(1864年7月8日)、京都では、祇園祭の熱気の中で池田屋事件が起きました。尊王攘夷の志士が会合中に新撰組に踏み込まれ、多くの死傷者を出しました。さらに七月十九日(1864年8月20日)には、その復仇戦とも言うべき蛤御門の変(禁門の変とも)が起きました。

 亜米利加アメリカ南部の医師がモルヒネの不足を嘆いたのは、この時代のことですから、モルヒネは相当なロングセラーであることがお分かりでしょう。モルヒネは、いまでも疼痛に用いられる有益なお薬です。

 

3. ニトログリセリン

ニトログリセリンは爆薬であり、これを珪藻土に染みこませて爆発事故を減らし、使いやすくしたダイナマイト(商品名)によって、アルフレッド・ノーベルは一躍、大富豪となりました。その遺産で、今なおノーベル賞が運営されていることは有名な話です。

 それにとどまらず、ニトログリセリンは血管拡張作用が強く、冠血管の収縮によって引き起こされる狭心症の特効薬であることも有名です。ダイナマイト工場で勤務する人の中に、勤務中に狭心症発作が治まり、帰宅すると発作が増えることに気づいた人の証言がきっかけでこの薬効が知られるようになりました。ニトログリセリンは揮発性の油状液体ですから、工場の空気中に漂うのです。

 あるいは、休み明けに勤務に就くと、ひどい頭痛やめまいを起こす人もいました。休みの間に“慣れ”が元に戻ってしまうため、血管拡張が引き起こされ頭痛やめまいにつながったのです。

 1846年、ニトログリセリンを合成したアスカニオ・ソブレロという伊太利亜イタリアの有機合成化学者がこれを舐めてみたら、こめかみがずきずきしたという記録があるそうで、後でわかった知識から遡って考えれば、血管拡張作用が発現したためと説明が付きます。

 しかも、ソブレロさんは、舐めてすぐに飲み込んだりせず、しばらく口に含んでいただろうということも想像がつきます。なぜなら、ニトログリセリンは飲み込む(経口投与)と効かず、口腔内粘膜から吸収されて始めて効くからです。きっと、口に含み、ニトログリセリンの灼熱感のある甘い味を味わって驚いていたことでしょう。日本では、ペリーが来航する以前のこと、弘化三年の出来事です。

 いまでも、ニトログリセリンは舌下錠、注射剤、皮膚吸収用スプレー、テープ剤など多彩な剤型で、狭心症の特効薬として広く使われています。おもしろいのは、当初から知られたニトログリセリンの性状が、添付文書の注意事項に反映されていることです。たとえば、

  • 本剤は、強い揮散性の製剤であるので、本容器のまま投与し他の容器に移しかえないこと、錠剤を取り出したら、直ちにふたを堅く締めることが書かれています。
  • ふたをあけてから3ヶ月以上経過すると効果が低下するおそれがあるので、使用開始日を容器に記入しておくという注意も、揮発性に由来するものです。
  • 本剤は舌下で溶解させ、口腔粘膜より吸収されて速やかに効果を発現するもので、内服では効果がない、という注意もその意味するところをすでにご説明しました。
  • 本剤を初めて使用する患者は、最初の数回は必ず1錠を投与すること。このとき一過性の頭痛が起こることがあるが、この症状は投与を続ける間に起こらなくなるという注意は、頭痛に“慣れ”が起きるということを意味します。


どれも、十九世紀に得られた所見に基づきます。

 

4. アトロピン

 アトロピンは欧羅巴ヨーロッパでは、美しい女性を意味するベラドンナと呼ばれる植物の根茎と根から取ることができます。このお薬は、散瞳作用があって、点眼すると瞳がぱっちりとなるため、ベラドンナ(bella donna/イタリア語)と呼ばれたといわれます。

 欧羅巴ヨーロッパでは散瞳剤として眼科手術に用いられていました。文政九年(1826)春、阿蘭陀オランダ商館長スチュルレルに同行した商館付医師のシーボルトが名古屋で会った日本の本草学者(薬草植物学者)から実物を見せられ、質問を受けたのが毒草「ハシリドコロ」でした。すなわちベラドンナとは別種ながら、アトロピンを含む植物であることをシーボルトはわかったようです。

 このあたりのことは、シーボルト著『江戸参府紀行』(斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)に次のように書かれています。

 


西暦1826年3月29日(文政九年二月二十一日)
……十二時数分前に指示されていた宮(今日の名古屋市熱田区内)の宿舎に着き、ただちに太陽高度の測定を行った。日本の友人や以前の門人が訪ねて来たが、その中にたいへん経験の豊かな植物学者で、私が手紙のやりとりをしていた水谷助六(中略)がいた。ここで私は後日私の研究にたいそう役立った伊藤圭介(中略)と知り合いになった(注釈:宮で知り合いになった伊藤圭介(1803-1901)は、医学を学んだ植物学者で蘭学を修めました。明治になって東大教授となり、我が国で初めて理学博士号を得た学者です)。

西暦1826年4月25日(文政九年三月十九日)
将軍の侍医、とくに眼科医の訪問を受ける。私は眼科についての書物と、眼科関係の機械をいっしょに見せる。瞳孔をベラドンナによってひろげる若干の実験を行う。そのいちじるしい効能に大喝采を博す。


 

 日本の眼科医、土生はぶ玄碩げんせきはシーボルトが江戸に出てきた折に、散瞳作用をもったアトロピンのことを教わり、シーボルトから少量を分与されました。土生がこれを使い切って再度、求めると今度は断られました。そこを熱心に頼みこみ、ついに、「ハシリドコロ」が名古屋近辺に生えていることを聞き出しました。それは、文政九年二月二十一日、シーボルトが水谷から教えられて知ったことを、今度は江戸で土生に伝えたのです。シーボルトは、土生に学名でScopolia japonica と言ったかどうかわかりません。学名はもっと後になって命名されたのかもしれませんが、土生には何の植物を指すのかわからなかったということです。

 しかし、その情報の対価は安いものではありませんでした。土生はかつて将軍から賜った葵のご紋入りの羽織を提供したのです。こうして、土生は後日アトロピンを手に入れ、これを使って、日本で初めて虹彩切開手術(白内障治療)に成功した栄誉を得ました。

 しかし、その二年後の文政十一年(1828)、シーボルト事件がおきて、土生が葵のご紋入りの羽織をシーボルトに提供したことが発覚し、土生は獄で晩年の長い時を過ごすことになります。土生玄碩の『師談録』では、シーボルトに散瞳作用を持つ薬が日本にあるのか教えてほしいと依頼した情況が次のように書かれています(上記注釈)。

 


余は一奇法を蘭医シーボルトに得たり。初めシーボルトこれを秘し、敢えて伝えず。余これを得んと欲し、万方請求してのちこれを許す。然るに薬名蘭語解すべからず、よりて問うて曰く、この薬品、日本にありや否やと。シーボルト曰く、有り、すなわち小冊子を翻して曰く、「宮」、「宮」と。宮は尾州の地名なり。蓋し、彼れ長崎より江戸に至る路、尾州宮駅を経しとき、路傍にこの植物を見たるか。余の悦び甚だしく、これを謝する所以を知らず、即ち御賜の外套を脱してこれを与ふ。人をして山野に捜探せしむ。果たして探り得たり。乃ち法の如くこれを製す。その効、蘭製に比し却って勝れり。余の罪を得たる唯この一事に坐するなり。

(カタ仮名を平仮名に直し、筆者の独断でわずかに修正)


 

 土生はこの件で幕府から咎められますが、自分の得た罪を他の人に広めないよう、上記のような書き方をしています。実は、シーボルトは宮で実物の茛菪はしりどころを見たことを告げ、土生は後に水谷の協力を得てこれを採集したのではなかろうかと想像されるということです(『水谷豊文先生ノ「茛菪図」ニ題ス』伊藤篤太郎〈圭介の孫〉著)。ベラドンナからとったものより、却って強いアトロピンを得たのだと土生の感激した気分が伝わってきます。

 現在、アトロピンには多くの適応症がありますが、その内の一つは散瞳で、これはシーボルトが土生玄碩に教えたことと変わっていません。日本での使用は、もうすぐ二百年になります。

 

5. おわりに

 人類の歴史には病気に苦しめられた歴史、苦しんだ病気を克服した歴史が含まれています。こうした医学史において薬の歴史も重要です。薬は発見され治療に使われる過程で改良が加えられ、新薬の発見につながってきましたが、発見された二百年も前のままに、いまなお、現役で使われているものがあります。

 今回、お示ししました他にもキニーネ(解熱剤)、コカイン(局所麻酔剤)、ジギタリス(利尿、強心剤)、サリチル酸/アスピリン(解熱)などが、そのようなお薬の例にあげられます。また、漢方薬はもっと古くから変わらず使われているお薬と言っていいのでしょう。

 こうしたお薬は、これから百年後、まだ使われているでしょうか? モルヒネ、ニトログリセリン、アトロピンは使われているかもしれません。使われているか、もう使われなくなっているかは、お薬の性能というだけでなく、お薬に関わる社会制度によるのかもしれません。そのあたりの制度のことも機会をみて、書かせていただきたく思います。

 三つの薬剤にまつわる歴史に刻まれた逸話が、皆さまのお疲れになった肩を解きほぐすことが出来れば、書いた者の望外の喜びです。